水間焼き 伏原窯元 伏原博之のブログ/一覧

水間焼伏原窯元 日々の制作あれこれ

2008年10月26日(Sun)▲ページの先頭へ
お知らせ
大変ご無沙汰しております。

この度、報告が遅くなりましたがブログを引っ越し(*増設)しました。
引っ越し先のブログでは、毎日2回の更新をしております。
朝は伏原窯すたっふの絵付けブログ、夜は私伏原による陶主日誌と2回アップしております。
こちら「のブログ」で楽しんで応援して下さった方には申し訳ございませんが、引っ越し先へも、遊びに来ていただけたら嬉しいです。

引っ越し先  アメーバ−ブログ(http://ameblo.jp/fushiharagama/) です。
宜しくお願いします。

*今後はこの「のブログ」をやめるわけではなく、アメーバーブログで搭載した記事の中から、文様の話であったり、陶磁器の話など内容の深いものを水間焼伏原窯の書庫のような形で使っていく予定です。更新頻度はかなり不定期になります故、アメーバーブログをご紹介させて頂きました。

どうぞ、これからも宜しくお願い申し上げます。


2008年05月31日(Sat)▲ページの先頭へ
今日の工房制作日誌 仕事あれこれ
5月31日(土)

プロのカメラマンさんに撮ってもらった写真をHPで大活躍してくれています。
さすがにいい写真でHPのグレードがアップしました。特に色絵の京焼はやわらかさが画面にあふれていて、大変幻想的で気に入っています。
素人がなかなか撮り切れないところを大胆に撮ってもらって、私たちの伝えたいところが表現出来たと思っています。これからも色々とチャレンジしながら伝えたいことを果敢に挑戦していきます。

仕事は青もみじの浅鉢の削りをしています。明日は日曜ですが仕事をして削り終えたいと思っています。


仕上がりの写真です。

6月は5月以上に作品作りに精を出さなくてはいけない状態です。頑張っていきましょう。

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2008年05月15日(Thu)▲ページの先頭へ
1975年瀬戸窯業高等訓練校にて
19歳で瀬戸の窯業訓練校に行ったのは大変良かったと思います。そこでの色んな人との交わりはいまでも貴重な体験だと思っています。思い出に残る人たちは今どのように暮らしているのでしょうか。まだ、陶芸を続けて居られる方はどの位いるのでしょうか?元気に作陶に励んでおられるでしょうか?かれこれ34年が過ぎようとしていますが。

何年前になるでしょうか朝日陶芸展か毎日か忘れましたが同期で確か四日市に居られる斉木さんという方が大きな賞を頂いていたのを新聞で読んだ事がありましたが。

時折本屋さんで偶然開いた雑誌に同期の作品が紹介されているのを見る事があり、「おお、がんばってるなあ!」と密かに再会を喜んでいます。

話を戻しますが、当時初めて陶土にふれ、身体に感じた感触を言葉にすれば、「これで(陶土)生涯の仕事にするんだぞ。」と腹にドスンと一撃を食らわされたような思いでした。

「えれらいもん、触ってしもた。で、どうなるんやろ。」楽観的に装いながらもこころはいつも必至でした。

訓練校には寮があって、私はそこで1年を過ごしました。もちろん男子寮で、出身も年齢もバラバラで全くの寄り合い所帯、とりとめのない雑多な寮でした。朝晩の点呼、外泊許可書はもちろん禁酒、10時消灯、畳はなく二段ベットでスリッパ。さみしい一年でした。
                                  つづく


今日の工房制作日誌 仕事あれこれ
5月15日(木)

午後より窯出しをしました。まずまず無難に焼けました。小さな窯ですので24時間冷ますと窯出しが出来、効率の面では大変助かっています。

これは四方小皿です。98枚焼きました。完品が90枚とれるといいのですが。



藤、杜若、扶養、瓢箪、おもだかを描きます。シリーズもので瓢箪、おもだかから始まり、菊、椿、桜(花筏の図案)まで出来ました。

桜から瓢箪と季節が飛んでしまうので、そこを埋めるのに藤、杜若、扶養と新しく意匠をしました。また、焼け次第このコーナーに載せます。



写真は見本です。四方の小皿に合う意匠が今回の面白さでシリーズの流れもあって楽しくできました。これから絵付けに入っていきます。

薬味いれの見本が焼けています。







細かい仕事でしでしたが、蓋と身が思ったように焼けてくれました。この土は大変細かい仕事でもきっちりと仕事を進めていくと、それなりに答えが返ってきます。

妥協はあまり許さない土で、とことん作りこんでいかなければこの土の本来の姿がでてこないようです。土味などは全く許されなく、形に大変厳しい土です。
轆轤物には適しているようですが、手ひねりではこの土は使えませんでした。

3年前でしょうか、ここの土屋さんを紹介してもらって挨拶を兼ねてお会いしにいきましたが、そこの土屋さんがもってられる厳しいスタンスが土にも表れているんだろうといつも思いながら作っています。

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2008年05月14日(Wed)▲ページの先頭へ
今日の工房制作日誌 仕事あれこれ
5月14日(水)

昨日からの窯焚きは午後2時45分で終了しました。京焼の最高温度は1235度が一応マックスです。
温度帯はSK7番から8番で、ここの窯ではねらしを30分から1時間とります。

樫灰の釉が完全に熔けるまで、窯の天と根の温度差は30度までとして、引っ張れるだけ引っ張っていく焼き方をしています。

酸化窯なので、素地の締まりがあまり悪いと食器として不都合をきたすので、ここでは灯油窯の火の力で酸化といえども十分素地を焼きしめていきます。

これは伏原窯の特徴と云えます。京都ではあまりこの様な窯で酸化焼はしないでしょう。もっぱら電気窯での酸化だと思います。電気窯では素地の焼き締め具合は不十分で、また灰釉の発色もあまり冴えません。

ようびに送った杜若紋の尺一寸の大皿は、OKでました。追加2枚の注文を頂きました。

薬味入れは見本として一度ようびに送って検討して頂きます。

きょうも6個仕上げをしました。

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2008年05月13日(Tue)▲ページの先頭へ
今日の工房制作日誌 仕事あれこれ
5月13日

四方小皿の窯詰めが終わりました。午後8時に火を付けあぶりで朝6時まで引っ張っていきます。
薬味入れの見本5個も一緒に入れました。

昨日から続いている「父の日」特販の写真をプロに一度撮ってもらうという件は、18日(日)でお願いすると云う事で決着しました。

在庫を確認しましたが、夏に向けての商品が染付を中心に祥瑞の大カップ(ビールカップ、焼酎杯)がたくさんあるので、これを中心に展開してみようということになりました。

早めの販売展開の方がいいのではないか、と云う結論です。

商品を揃えていくことに全力を上げていきます。

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2008年05月12日(Mon)▲ページの先頭へ
今日の工房制作日誌
平成20年5月12日(月)


工芸店ようびの注文で京焼四方小皿の釉掛け、100個。薬味入れサンプル5個。

HPで「父の日特集」で特販をする方向で進めています。写真を一度プロに取ってもらおう、という話が出て、時間調整をしています。5月20日が最終予定日ということで調整が難航しています。

結果、プロに入ってもらうのは、6月に調整し直すということになり、御中元商戦のアイテムをしっかり揃えて取ってもらうようになりました。

工房はこれから制作に追われてきます。何をどのように作っていくか!色々なアイデアが必要で、イマジネーションにまかせ素早く対応の出来る工房作りが必要になります。



今日の工房制作日記 仕事あれこれ
昨日の椿紋夫婦湯のみが焼きあがりました。



白盛りで椿を描き、大きい湯呑は花が開き気味に、女性用のお湯呑の椿は蕾風にかわいらしく仕上げてみました。
白盛りが少し濃かったせいで、釉薬がちぢれました。



2008年05月11日(Sun)▲ページの先頭へ
1970年日本工芸史私見 瀬戸から
1975年、私は瀬戸の愛知県窯業訓練校に入学しました。

全国で窯業訓練校は、ここ瀬戸と内容は少し違うのでしょうが轆轤をはじめ焼き物のいろはを教えてくれるということでは、京都と2か所ぐらいしかありませんでした。京都は伝統的にギルド制が色濃く残っているところで、京都在住者か地元の有力者の推薦がなければ入学は困難で、他所からの者はなかなか入れないようでした。

遠い親戚筋になるようですが、静岡県に森山焼中村陶吉窯があります。19歳になって、陶芸の道に進みたいのですが、どうすればいいものかとお話を伺いに行きました。

先生は、「まだまだ若いのだから、色んな窯業地に専門校がある。そこにはいって、友達をたくさん作ってからまた、相談にでもきなさい。」と云われました。

それで各地にある窯業専門校なるものに手紙を送り資料をおくってもらいました。
また、美大も調べてみましたが、いまからでは全然間に合わないし、それじゃあ、直接現場に飛び込んだ方が実質的だとも思われたので、一番入学しやすかった瀬戸の訓練校にいくことになりました。

70年という時代がおもしろかったのでしょう、そこで、色んな人と出会うのですが、陶芸を始めるのに私はいまでも最良の選択だったと思っています。

当時の訓練校には脱サラの人も多く、またどう云う訳か美大を卒業して訓練校に入ってきた人たち、東京の陶芸専門校を卒業してきた人たち、とすでに色んなスキルを身に付けた人たちが多くいました。

面白いのは当時たいへんな志野や織部といった美濃系の陶芸ブームだったので、脱サラでここを卒業後直ぐに窯を持ってお茶碗を焼くという人、また、陶芸教室を開くのにノウハウを学びに来た人、、、、、。

定年後の趣味のため、?。なにか、本来の訓練校から逸脱した人たちが多くいました。もちろん真面目に訓練校に来ている人も多くいましたが、そんな雑多な思惑の違う人と学ぶのも始めてだったので大変面白く勉強になりました。

このころに深く親交を持った人で、今千葉の千倉で活躍されてしている浅井純介さんが居られます。年齢は10歳も年上になるのですが色んな面で当時大きな影響を受けました。

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2008年05月10日(Sat)▲ページの先頭へ
今日の工房制作日記 仕事あれこれ
5月10日

尺一寸の大皿に6月のテーマ、杜若を描きました。



上の写真は上絵付けで描き上げた状態です。これを錦窯(きんがま)に入れて、約800度で焼き付けます。4時間から5時間くらいで焼きます。

 

焼き付け後の写真です。上々に焼く事が出来ました。

 


新しく挑戦いたします。今までの黄粉引きのお湯呑に椿の上絵を施しました。



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2008年05月09日(Fri)▲ページの先頭へ
日々工房での制作過程を写真を交え、報告いたします。
平成20年5月8日(木)

工芸店ようびの注文で「薬味入れ」を作っています。大変小さな蓋の物で、こんなに小さい物ははじめて作りました。



写真は削り終えた時のものですが、焼上げ寸法は高さ4センチ程度のものです。

 

小物の轆轤は返って難しく手が決まっていないと形にばらつきが出来、見た目にも不安定感のあるものです。今回の仕事はかぶせ蓋で、蓋がずり落ちないように裏に足を作ってあります。

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2008年05月04日(Sun)▲ページの先頭へ
緒方乾山
乾山焼

幽邃、風雅な世界を陶磁に表現し、日本屈指の様式美を創造した元禄京焼の創始者
仁清とともに日本を代表する陶工のひとりです。

1663年(寛文3)京都御服商、雁金屋・緒方宗謙の三男として生まれ,名は権平、後に深省と号する。またその家は本阿弥光悦の流れをくみ、次男に画家法橋光琳がいる。父の没後御室仁和寺前の山荘習静堂に閑居するが、御室焼の仁清に師事し陶芸を学ぶ。

1699年(元禄12)37歳の時に仁清の窯に近い鳴滝泉谷に開窯し作陶を始める。この地が皇城の乾の方角に当たっていた事から窯名「乾山」を御室仁和寺より拝する。後に自身も緒方乾山と呼ぶようになる。

開窯に当たり、仁清の子清右衛門押小路(おしこうじ)焼の孫兵衛などの陶工の協力によって工房は運営された。また、兄光琳との合作も多くこの時代を「鳴滝乾山」と呼ばれる。

この時代のレパートリーは多く、大別すると初期の頃は、低下度焼成の釉下色絵の作品が多く焼かれている。

これらは錦窯と呼ばれる低下度専門(800度位)のかなり小さな窯で焼かれたものであるが、それら作品を推測するに押小路窯の技法を発展させ、さらに独自の形態に創造昇華させたものと考えられる。

本焼き焼成(高火度焼成)の技術は御室焼(仁清)から導入し、当時主流をなしていた織部焼や唐津焼などを積極的に写し、これも乾山風に意匠された作品を多く産出している。

また御室焼の特徴でもある国焼意匠も積極的に取り入れ、御室焼を踏襲しながら乾山焼を完成させていく。
錆絵百合型向付などにみられるが、全く同じ題材で、同じ型を模試し、仁清陶器とはまた違った趣もある、土味のきいた乾山陶器に仕上げられている作品もある。

さらにこの瀬戸様式の鳴滝窯で磁器焼成にも取り組んだようで、中国の雲堂手を模した作品もある。

これらを総括すると、鳴滝窯は乾山の壮大な実験窯であったと思われる。ここでの試行錯誤が後の乾山様式を生み出した。

この窯を代表する特徴のひとつに兄光琳との合作「錆絵角皿」があるが、近年の研究の結果、丁字屋町に移転後も、光琳が亡くなる享保元年(1716)まで合作は続いたとされている。

これらかつてない斬新な陶器は、京焼きの後発であった乾山焼の世評を大いに高めることとなる。それはまたいよいよ洛中に乗り出す大いなる契機にもなった。

                *

1712年(正徳2)乾山50歳の時に、二条通寺町西入丁字屋町(中京区)に移った。この時代を「二条乾山」という。
      
                                   つづく
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2008年05月01日(Thu)▲ページの先頭へ
仁清
仁清(にんせい)

葉茶壷の名産地、丹波国桑田郡野々村(京都府北桑田郡美山町)で生まれた。野々村姓はこれに因んでいる。名は清衛門という。

正保四(1647)年ころから洛西の御室仁和寺前に築窯が許され御室焼を始め、やがて仁和寺の仁と清衛門の清をとって「仁清」と名のることになる。

当代の茶匠金森宗和の作陶指導と仁和寺宮の手厚い庇護のもとで作り上げられた仁清陶器は、堂上公家の間で大変賞玩された。

作風は京都にふさわしく艶麗典雅で京焼に大きな影響を与えた。しかし、仁清の詳細と生没年は未だ不明で、遺された作品にその活躍を知るのみです。

仁清陶芸の特徴は、轆轤技術の極致を示す優美な姿と、赤、萌黄、紺、黄、紫、白、金、黒などを用いた上絵付けの都振りともいえる艶やかさでしょう。

なかでも狩野派、宗達派風の図柄で彩られた茶壷は薫り高い作行きは他に類をみない日本陶磁の最高とされています。

仁清は、その洗練された技をもっていわゆる「奇麗さび」の茶陶を数多く生み出しました。
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2008年04月27日(Sun)▲ページの先頭へ
1970年日本の工芸史私見 2
話を70年に戻しましょう。まだそのころは明治の方々も多く現役で活躍されていました。

人間国宝で益子の浜田庄司先生やイギリスのセント・アイブスに住むバーナード・リーチ先生など80歳、また90歳を回っても活発に作品を世に送り出していました。

戦後の陶芸界に大きな断層が有る様に思われました。

10年の修行期間によく思ったことですが、瀬戸の赤津で轆轤の勉強をしていた時、親方衆の中に轆轤が挽けない人が案外多くいました。また轆轤職人のなかにも70歳を超えた人が多くいた様に思います。その中間にいなければならない年齢層の方々がいないのです。

ちょうど私の父親世代でしょう。若い期間、まだ手首等が柔らかく轆轤が身につく時期に、徴兵で出兵したり、また戦後復興で動力轆轤や鋳込みなどで大量に作らなくてはいけなくなり、轆轤などやってられなくなったのでしょう。
轆轤を主に作陶される作家さんは別にすれば、普通の工場から轆轤が消えていきました。僅かに手作りを売りにしている工場だけが轆轤を回しているのが現状でした。
では、伝統の継承がいついかに行われているのか。問題ですね。

実はこの問題は今も全然解決されていなのが現状で、むしろどんどん悪くなる一方なのです。
日本から「手の仕事」が消えていこうとしています。
それを憂いたのか美術大学等に工芸部が出来たのも70年でした。しかし、今の現状は工芸の伝統継承がされているでしょうか?はなはだ、疑問です。

よく思うのですが、ドイツにはマイスター制度があり、小学4年生でマイスターの道に行くのかまた違う道に進むのか選択をさせられるそうです。

戦後日本は復興、復興が第一義で追いつけ、追い越せがスローガンでやってきました。

「手の仕事」などは古い徒弟制度の中にのみ生きているのが現状でした。

1970年はそんな工業復興一義からもっと人間復興への転換期のように思えます。

世界全体が何か打破していきたい気持ちに覆われていました。戦後の重くのしかかる政治体制をもっと人間性に富んだ自由で闊達なものに変えたいと欲していたのだと思います。

いろんな世界に変革の機運がありました。もちろん陶芸、工芸の世界も例外ではありませんでした。

ここでもまた団塊の若者たち(?)が流れを作っていくのです。

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貝塚音羽焼きの出会い
それは偶然の出会いかもしれませんが、大変印象に残る出来事でした。見過ごせばそのまま立ち去ったであろう日常の何でもない普通の通りすがりで終わっていたことでした。

もう何年前になるでしょうか。そうですねえ、かれこれ15年になるでしょうか。

貝塚市役所に何かの用事での帰りですが、市役所内入口に市内の発掘調査で出土した色々な品々が展示されているコーナーがあります。そこにいつもと違う私にとって大変目を引くものが展示されていました。

薄手に挽かれた華奢な轆轤もの、湯呑、茶碗、椀類の陶片に鉄絵で簡単な絵が施されていました。

直観で貝塚にこんな窯があったんだ!京都から陶工集団がきて開窯、営業していたんだ。驚きました。なぜ?

自分がやろうとしていた事の先達がいたんだ!という驚きでした。

この地で昭和60年に開窯し、数々の展示会を行って来ましたが、いったい自分は何を土台にここでの作陶を続けられるのか、水間焼という地域の看板を持っているがいったいそれはどういう意味を自分の人生にもたらすのか?いつも暗中模索していた折での出会いでした。

それからまだまだ時間と人との出会い、また多くの経験が必要だったのでしょう。

伏原窯を開窯して20年がたっていました。大きな節目を感じていました。自分達の進む道が一つ終わった様な気持ちになっていました。

本当になにをやりたいのか。が真剣に自分の中から問われていました。逃げ場がないのです。はっきり云って私たちはすべての焼き物をこなしてきました。しかし、どこにもここと云う場所はありませんでした。いや、そう思っているだけかもしれませんが、まだ、前に行かなければなりませんでした。

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2008年04月26日(Sat)▲ページの先頭へ
1970年日本の工芸史私見
器たのし 1970年の工芸感

自分が陶芸に出会った当時は日本が一大陶芸ブームでした。

まだ17,8才では何がなんだかわからないまま、時代の流れだけが世界の全ての様に感じていました。
地元の進学校に在籍していましたが、70年安保、学生運動、ベトナム戦争、フランスに於ける5月革命、冷戦真っただ中で、世相が大きく左へと傾いていきました。

1970年代の革新世相もあって、日本もUターンやIターン現象という若者が中央から脱出し、地方から自分たちの文化を創り出そうぜ、という今で言う発信しよう!という動きがあって、陶芸が自然志向と結びついて各地の窯業地は多くの若者で賑わっていました。

団塊の世代が若者文化を創り出していきました。

私はその世代より5年も6年も遅く生まれましたので、正直「遅れてきた青年たち」に属しますが、、、。

「自分に正直に生きていこう。」自分の内面、精神意識を表現して、それが社会と共有できたら、なんて夢を見ていました。初めて土で生きていこうと考えたのはいつだったでしょうか。もう遠い記憶ですが、観念では土が一番自分らしさを表現してくれる素材だと直感していました。

70年は京都発で八木一夫先生たちの走泥社のムーブメントが陶芸界の大きなうねりとなり、社会でもオブジェ焼きが認知され、また陶芸を超えた表現までも模索しだした頃でした。伝統の枠から表現の自由というウイングを伸ばし、どこまで飛べるか、みんながいろいろな方向性で実験、模索、を繰り返していました。

大変エネルギッシュな時代だったと、今思います。土と自分が正面からぶつかり、表現を繰り返し、またそれを面白がってくれる観客(ギャラリー)、批判してくれる人たちが十分いてくれました。いうところのうるさいお方達がゴロゴロ居てくれました。使えない器を作ると真剣に怒ってくれました。今はどうでしょうかねえ。器の世界は見るも無惨な状況ですねえ。

用ということに真剣に向き合って作ってられる方があまり見受けられないように思いますが。

ビジュワルな世界が先行しているのでしょうか。昔は奇を衒うといって、工芸の世界では個性と勘違いするなと大変注意されたものですが、まあ、何時の時代もそうですが、その中から揉まれて残ってくるのでしょうが、、、。

90年以降、日本の経済が低迷してから陶芸界もあの輝きは何処にという思いです。食器ひとつ見ても作り手ひとりよがりの、これ、使えんがな、という器でも作家物として高く売られていると、陶芸ってなんだろうか?自分の作っていくの物はどうなんだろうか?と考えさせられてしまいます。

長く食器ブームが続いていました。一般家庭にも作家物(不思議なネーミングですねえ。)と呼ばれる食器がひとつや二つ有りました。有り難いことです。これで私たちは食べていけたのですから。

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2008年04月20日(Sun)▲ページの先頭へ
辰砂釉
辰砂釉

血紅色を呈する釉薬で、昔から中国に於いて製され、朝鮮(李朝)や日本もこれに倣った。特に李朝の辰砂は大正、昭和期に興る民芸運動に大きな影響を与えました。

辰砂釉の名は硫化水銀から成る天然朱の「辰砂」の色と同じ色から名付けられたものでしょう。

この血紅色を現わす為の主要な成分は銅化合物で、これを透明釉に混ぜて還元焼成したものです。

中国の辰砂手(釉裏紅)は宋均窯と云われる紅紫釉から出たもので、明朝の宣徳年間に祭紅、宝石紅などと呼ばれた、鮮やかで落ち着きのある非常に上品な釉調が産まれました。

清朝の康煕になって、郎窯手という真紅色で鶏血の様な、また牛血の様な紅色磁が生まれました。

この血紅色は見る人の心を奪う大変魅力に富んだ釉薬のひとつだと思います。

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2008年04月09日(Wed)▲ページの先頭へ
水間焼 伏原窯開窯史
昭和60年4月10日に独立開窯をするため、最後の修行地石川県九谷からここ貝塚大川に引っ越して来ました。当時私は29歳で、10年余の陶芸修行にピリオドを打ち、故郷泉州で念願の独立開窯の為に燃えていました。

独立に当たり私は人生に於いて大きな賭けをしたように思います。それは他人から見ればきっと、無謀とも云える賭けかも知れません。

何も無いところから生活の全てを創造する。「無から有を生む」そんなあてもない夢のような考えを本気で考え、家族を持っていながら自分の想い(哲学)を形にして生きていこうと決めたのです。

ここでの生活が創造そのものであり、生活と芸術の分離なき暮らしを目指しました。その様な中から、与えられてくるもの全てを受け入れ、そのことからの自分自身の発見や、また与えられてくるイマジネーションを高めていく作業は大いに面白く、それを表現してみたいと考えました。

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2008年02月04日(Mon)▲ページの先頭へ
水間焼と京焼 京焼古清水からの流れ
古くから色々な文献に登場する和泉音羽焼の物原らしき場所が発見されて、発掘調査がされ、平成5年発掘調査の資料がまとめられました。

それの資料を昨年入手することが出来ました。多くの破片の中から、大変興味深いものが多く出て参りました。

一つひとつ歴史を読みながら、ここ貝塚にあった文化を探り、今私たちが失いつつあるアイディンティティを今一度見つ直して行きたいと思います。

近年まで続いた貝塚音羽焼、また、願泉寺境内に築かれ焼かれた願泉寺御庭焼、文献にも残る水間焼、ここ貝塚で焼かれて来た陶芸の道の発見と発掘は、大変興味のある面白い世界が展開される事を夢みております。ともにこの道がどこまで続いていくのかを楽しみにしてください。

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2007年11月20日(Tue)▲ページの先頭へ
水間焼 伏原窯手の仕事1
昭和60年開窯以来、一貫して手作りの食器をつくり続けております。 日々の普段使いの器から高級料理店、料理旅館で使われる専門の器まで幅広く作陶しております。いままで多くの方々に愛陶されて参りました。 いま、私共が力を注いでいる器は、昔京都で珍重され、大変栄えた古清水という優雅で雅な器を現代に再現し、緻密で繊細しかも気品溢れる器です。 一つひとつ丁寧に手作りされますので、到底大量には応じられませんが、今この世界にひとつしかないオリジナリティの高い器を希望される方には、喜んで作らせて頂きます。 新規にお店を始めようとされる方や新しいニーズに合う器を求められて居られる方にも対応させて頂きます。

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水間焼 伏原窯元です。http://www.fushiharagama.com

初めまして大阪貝塚から陶芸の世界で色々と発信して参ります。自然、歴史、工芸、人々の文化的繋がり、また、足もとに咲く小さな花々の世界観も織り交ぜ書きこみますので宜しくお願い致します。

物づくりの現場から見たこと、考えたこと、感じたこと、何でもかんでも書いてみます。


伏原窯が開窯して25年を迎えようとしています。ここ数年を掛けて自分たちの陶芸を大きく前進させて来ました。絵画性の強いより自由な展開を色々と試みてきました。
これからされて行く私たちの陶芸は古清水を土台にし、仁清陶器の轆轤味、また乾山陶器の絵画性をも持ち味とした、独自の世界を開拓していきたいと考えています。

 ◍京焼の注文制作を承ります。

私共の陶器を取り扱って下さいます工芸店の御案内です。

工芸店ようび
http://www.rakuten.ne.jp/gold/yobi/
HP内「京焼き」のコーナーは伏原窯の作品です。

カレンダ
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