緒方乾山
近年(平成12)の鳴滝窯跡の発掘調査で明らかになってきた乾山焼を考える。
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2008年05月04日(Sun)
緒方乾山
乾山焼
幽邃、風雅な世界を陶磁に表現し、日本屈指の様式美を創造した元禄京焼の創始者。 仁清とともに日本を代表する陶工のひとりです。 1663年(寛文3)京都御服商、雁金屋・緒方宗謙の三男として生まれ,名は権平、後に深省と号する。またその家は本阿弥光悦の流れをくみ、次男に画家法橋光琳がいる。父の没後御室仁和寺前の山荘習静堂に閑居するが、御室焼の仁清に師事し陶芸を学ぶ。 1699年(元禄12)37歳の時に仁清の窯に近い鳴滝泉谷に開窯し作陶を始める。この地が皇城の乾の方角に当たっていた事から窯名「乾山」を御室仁和寺より拝する。後に自身も緒方乾山と呼ぶようになる。 開窯に当たり、仁清の子清右衛門や押小路(おしこうじ)焼の孫兵衛などの陶工の協力によって工房は運営された。また、兄光琳との合作も多くこの時代を「鳴滝乾山」と呼ばれる。 この時代のレパートリーは多く、大別すると初期の頃は、低下度焼成の釉下色絵の作品が多く焼かれている。 これらは錦窯と呼ばれる低下度専門(800度位)のかなり小さな窯で焼かれたものであるが、それら作品を推測するに押小路窯の技法を発展させ、さらに独自の形態に創造昇華させたものと考えられる。 本焼き焼成(高火度焼成)の技術は御室焼(仁清)から導入し、当時主流をなしていた織部焼や唐津焼などを積極的に写し、これも乾山風に意匠された作品を多く産出している。 また御室焼の特徴でもある国焼意匠も積極的に取り入れ、御室焼を踏襲しながら乾山焼を完成させていく。 錆絵百合型向付などにみられるが、全く同じ題材で、同じ型を模試し、仁清陶器とはまた違った趣もある、土味のきいた乾山陶器に仕上げられている作品もある。 さらにこの瀬戸様式の鳴滝窯で磁器焼成にも取り組んだようで、中国の雲堂手を模した作品もある。 これらを総括すると、鳴滝窯は乾山の壮大な実験窯であったと思われる。ここでの試行錯誤が後の乾山様式を生み出した。 この窯を代表する特徴のひとつに兄光琳との合作「錆絵角皿」があるが、近年の研究の結果、丁字屋町に移転後も、光琳が亡くなる享保元年(1716)まで合作は続いたとされている。 これらかつてない斬新な陶器は、京焼きの後発であった乾山焼の世評を大いに高めることとなる。それはまたいよいよ洛中に乗り出す大いなる契機にもなった。 * 1712年(正徳2)乾山50歳の時に、二条通寺町西入丁字屋町(中京区)に移った。この時代を「二条乾山」という。 つづく http://www.fushiharagama.com |
初めまして、大阪貝塚から陶芸の世界で色々と発信して参ります。自然、歴史、工芸、人々の文化的繋がり、また、足もとに咲く小さな花々の世界観も織り交ぜ書きこみますので宜しくお願い致します。 ◆物づくりの現場から見たこと、考えたこと、感じたこと、何でもかんでも書いてみます。
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これからされて行く私たちの陶芸は古清水を土台にし、仁清陶器の轆轤味、また乾山陶器の絵画性をも持ち味とした、独自の世界を開拓していきたいと考えています。 ◍京焼の注文制作を承ります。 私共の陶器を取り扱って下さいます工芸店の御案内です。 工芸店ようび http://www.rakuten.ne.jp/gold/yobi/ HP内「京焼き」のコーナーは伏原窯の作品です。
カレンダ
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